傑作時代劇『赤い袖先』でジュノ(2PM)が演じたイ・サンに、生涯愛された宮女がソン・ドギム(成徳任)だ。歴史的には宜嬪・成氏(ウィビン・ソンシ)と呼ばれており、『赤い袖先』ではイ・セヨンが情感たっぷりに演じていた。
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ソン・ドギムは1753年に生まれた。彼女の父親は、洪鳳漢(ホン・ボンハン)の屋敷で下働きをしていた。
洪鳳漢といえば、思悼世子(サドセジャ)の妻であった恵慶宮(ヘギョングン)の父親だ。思悼世子は父の英祖(ヨンジョ)によって米びつに閉じ込められて餓死してしまったが、その大事件が起きた1762年に、9歳のソン・ドギムは王宮に入って宮女の見習いとなった。
そのとき、彼女は恵慶宮の配下に入った。こうなると、恵慶宮の長男のイ・サンと接する機会が増える。こうして、ソン・ドギムは10歳のイ・サンと親しくなった。
同じ1762年にイ・サンは後に彼の正室となる孝懿(ヒョウィ)王后と結婚している。孝懿王后はソン・ドギムと同じ歳で2人は仲が良かった。しかし、彼女は『赤い袖先』にはほとんど出てこない。それは、イ・サンとソン・ドギムの愛を純粋に昇華させるためであったからかもしれない。
1766年、イ・サンはソン・ドギムに承恩(王や世子が意中の女性と一夜を共にすること)を命じた。ところが、彼女は承恩を拒絶した。命を失っても仕方がないほどの反逆だったが、イ・サンはソン・ドギムの心中を察して罪に問わなかった。
その後も彼女は恵慶宮の下で女官として働いた。特筆すべきことは、1773年にイ・サンの2人の妹と一緒に古典小説『郭張両門録』の筆写を行なったことだ。
その場面は『赤い袖先』にも登場していたが、有名な小説の筆写ができるほどだから、ソン・ドギムは学識がとても高かった。まさに、王族女性なみの教養を持っていたのだ。
1776年、英祖が亡くなり、イ・サンが22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。彼がソン・ドギムを愛する気持ちはまったく変わらず、1780年には再び承恩を命じている。それは14年ぶりのことだった。
今度こそ彼女は承恩を受けるはずだと思われたが、なんと再び拒んだ。史実では「子供が産めない孝懿王后に気兼ねしたから」ということが定説になっているが、『赤い袖先』ではそのことに触れず、ソン・ドギム自身の自立心が強調されていた。
当時のイ・サンは深刻な問題を抱えていた。後継ぎがいなかったのだ。まもなく30歳の国王を悩ます後継者問題は王朝を揺るがす事態になっていた。
結果的に、ソン・ドギムは宮女のままイ・サンの子供を身ごもることになった。それは王朝にとって吉報だったが、結局は流産となった。同じことが二度続いた。
しかし、三度目の妊娠の後にソン・ドギムは王子を産んだ。それは、1782年9月のことだった。ソン・ドギムは正式に側室の宜嬪・成氏となり、正一品の品階を受けた。
1784年には王女も産んでいる。宮中は喜びに包まれた。
しかし、束の間だった。