【名君の失政】業績だらけのイ・サンが唯一おかした失敗は「えこひいき」だった⁉

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2PMのジュノが颯爽とイ・サンを演じた時代劇『袖先赤いクットン』(原題)は、大変な人気作となった。それにつれて、イ・サンという歴史上の大人物のことも改めて関心を集めている。

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もともとイ・サンこと正祖(チョンジョ)は、朝鮮王朝の22代王として名声が高かった国王だ。聖君として一番有名なのはハングルを創製した4代王・世宗(セジョン)だが、次のナンバー2となると、それは間違いなくは正祖である。

彼は朝鮮王朝後期の名君として韓国でもずっと尊敬を集めてきたが、今度は『袖先赤いクットン』を通して再び大きな脚光を浴びるようになった。ドラマの大ヒットに応じて取り上げられるという意味で、「とても幸せな国王」だとも言える。

そんな正祖は、史実でも頭脳明晰かつ人格が優れていることで有名なのだが、今回は視点を変えて彼の失政について語ってみよう。

1776年に24歳で即位した正祖は、次々と新しい政策を実行して成果を挙げていった。その中には、人材の登用、文化の発展、実学の進歩といったプラスの政治が目白押しなのだが、後世の歴史家が批判していた大きな問題点が洪国栄(ホン・グギョン)の重用であった。

(写真提供=MBC)

正祖のせめてもの温情

とにかく、正祖は自分が即位する前から側近の洪国栄の才能を高く評価していて、国王になってから彼を要職に次々と就けていった。

まさに、洪国栄は正祖の信任を完全に受けた形となり、彼は人事権まで完全に握った。そうなると、中央と地方の官僚たちはこぞって洪国栄の顔色をうかがい、彼の威光は全土に及んだ。

結果からいえば、いくら能力があっても、一人の人間に多くの権限を与えすぎた。それによって洪国栄は図に乗るようになり、しまいには自分の妹を正祖の側室に送り込んで、国王の子供を産ませるような画策まで行なっている。

これは実を結ばなかったが、傲慢になった洪国栄は最終的には失態続きで地方への追放を余儀なくされた。死罪もやむを得なかったが、それをさせたかったのは正祖のせめてもの温情であった。

とはいえ、洪国栄の度が過ぎた重用は正祖にも責任があった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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