ソウルの江南(カンナム)地区の蚕室(チャムシル)にあるロッテワールドの近くに、亀の台座の上に高さ5メートルほどの古い石碑が建っている。
かつては、住宅街の一角の公園の中にあったが、2010年に考証を経て、蚕室のロッテワールドの近くに移したものだ。
この石碑は、韓国史の重要な出来事を語り継ぐ碑である。私は、住宅街の公園の中にある時に行ったが、その時の石碑の案内文には、次のように書かれている。
「この碑は丙子胡乱(ピョンジャホラン)後、仁祖(インジョ)17年(1639)に、清の太宗の軍営があった漢江(ハンガン)べりの三田渡(サムジョンド)で、仁祖が降伏した事実を記録した遺跡碑だ。この碑は『汗の碑』とも呼ばれ、碑文には『大清帝国功徳碑』と書かれているが、史跡指定当時、この地の地名により新たに三田渡碑とした」
そして私が行った時は、石碑の横には、清の太宗にひざまずく朝鮮王朝第16代国王・仁祖の姿が描かれているレリーフがあった。
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16世紀末から17世紀にかけての朝鮮王朝は、内外の問題で、激しく揺れ動いた。
この時代、朝鮮王朝内部では党派争い(党争)が、し烈になっていた。それぞれの派閥は、東西南北に分かれて集まっていたので、東人(トンイン)、西人(ソイン)、南人(ナミン)、北人(プギン)と呼ばれるようになっていた。
そこに豊臣秀吉による朝鮮出兵が起こり、朝鮮王朝は、根幹を揺るがす大打撃を受ける。それでも王太子であった光海君(クァンヘグン)の指揮の下、朝鮮王朝側も抗戦した。秀吉軍が撤退した1608年、光海君は北人派に推されて王位に就いた。
しかし朝鮮王朝にとっては、一難去ってまた一難である。この頃、北方の女真族が築いた後金が勢力を伸ばし、明を圧迫するようになった。
そして明は朝鮮王朝に援軍を求めた。秀吉の朝鮮出兵の時に助けられた恩義があるため、光海君は援軍を出したものの、実利主義の北人派に支えられている光海君は、後金の巨大な勢力をみて、無謀な戦いを避け、後金と手を結んだ。
こうした行為は、大義名分を重んじる保守派の西人派にとっては、明の恩義に背くものだということになり、激しく反発した。
その結果、西人派の陰謀によって、光海君は王位をはく奪され、北人派は弾圧された。光海君の後は、西人派によって甥に当たる仁祖(インジョ)が即位した。
仁祖は親明の姿勢を鮮明にした。これに対して1627年、後金は3万名の兵を送り、朝鮮を攻撃した。仁祖はソウルの西にある江華島(カンファド)に避難して抗戦したが、降伏し、後金と「兄弟の盟約」を交わした。これを丁卯胡乱と言う。
勢力を拡大した後金は、朝鮮王朝に「君臣の義」、すなわち臣下になることを要求するようになった。
北方民族が支配する後金を「オランケ(野蛮人)」とみなす朝鮮王朝に対し、1636年に国号を清と改めた後金は、清朝第2代の皇帝である太宗自らが10万もの兵力を率いて朝鮮を攻撃した。
仁祖は、ソウルの南東にある南漢山城(ナムハンサンソン)に避難し、抗戦したが、清の圧倒的な兵力にはなす術がなかった。
これが丙子胡乱である。敗れた仁祖は、清の軍営があった三田渡で、清の太宗に対し、3回ひざまずき、9回頭を下げて謝罪するという屈辱を受けた。
清の太宗はそれに飽き足らず、清への謝罪と、臣下になることを誓った碑を建てさせた。これが、三田渡碑である。
そして、三田渡での出来事は、「三田渡の屈辱」として、語り継がれることになった。
したがって、三田渡碑は、韓国では非常に珍しい、屈辱の歴史を語り継ぐ石碑である。
文=大島 裕史
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