高麗宮址と龍興宮の間に、ちょっと変わった建物がある。黒瓦の屋根の軒には丹青が施され、正面には儒学者の屋敷のように漢文が書かれている。
しかし、屋根の一番上には十字架がそそり立ち、建物の中を見ると、長椅子と長机が並び、奥には礼拝堂がある。そして2階正面には、「天主聖殿」と書かれている。
この建物は、1900年に建てられた「聖公会江華聖堂」だ。聖堂と言っても、木材は白頭山(ペクトゥサン)の原始林で伐採された松を用い、建設には景福宮の再建工事を行った大工の棟梁が携わっており、れっきとした韓国式の建築物である。
朝鮮半島にキリスト教は、正祖の時代の18世紀後半には中国を通してかなり広まっていたが、大院君による大虐殺をはじめ、弾圧と殉教の歴史を繰り返していた。
一方、江華島にはフランス艦隊の後も、1871年にアメリカ艦隊が侵攻し、激しい戦闘の末退けている。攘夷の意志はより強固になったが、2年後の1873年に成人になった高宗(コジョン)が親政を始め、王妃の一族・閔(ミン)氏の権力が増した。すると、攘夷の機運がやや緩くなっていた。
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その間隙を突くように1875年、日本の軍艦・雲揚号が江華島沖に現れ、武力衝突になった。
江華島事件または雲揚号事件と呼ばれるこの戦闘をきっかけに、日本は朝鮮王朝に開国の圧力をかけ、翌年、日朝修交条規(いわゆる江華条約)が結ばれ、朝鮮は開国した。
朝鮮はアメリカ、イギリス、フランス、ロシアなどとも国交を相次いで結び、同時にキリスト教の本格的な布教も可能になった。
しかしながら、あまりに多くの殉教者を出しているため、欧米の宣教師は、朝鮮での布教活動は、様子を見ながら慎重に始める必要があった。
しかも、たびたび外国の侵略受けた江華島の人たちの攘夷思想は、開国後も強かった。そのため島民を刺激しないよう、慎重に行われた布教初期の状況をそのまま形にしたのが、あの不思議な建物である。
文・写真=大島 裕史
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