朝鮮王朝では高官たちの派閥闘争がとても激しかったが、とりわけ粛宗(スクチョン)の時代は南人(ナミン)派と西人(ソイン)派が熾烈に争っていた。張禧嬪(チャン・ヒビン)が南人派、仁顕王妃(イニョンワンフ)が西人派である。
結果的には、仁顕王妃が廃妃されて南人派が勢力争いに勝ったことになるが、西人派も黙っていない。彼らは虎視眈々と南人派を追い落とす機会をうかがっていた。
そんな西人派にとって“希望の女神”となったのが、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)だった。
彼女はもともと、宮中で水を運ぶ下働きをしていた女性である。身分は低く、本来なら王の前に出ていける立場ではない。それが粛宗の寵愛を受けるようになる。
推察すると、こういうことかもしれない。
粛宗は張禧嬪を王妃にしたあと、急速に彼女への関心を失っていく。意中の女性を射止めるまでが粛宗にとっての“寵愛”であり、それが達成されると、早くも他の女性に目が移ってしまう。
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そして、粛宗が張禧嬪に代わって寵愛したのが淑嬪・崔氏だった。この場合、彼女の後ろ盾になっていたのが西人派だ。こうして、“南人派の張禧嬪”と“西人派の淑嬪・崔氏”という対決構図ができあがった。
西人派が逆襲に出たのは、1694年3 月29日だ。この日、西人派に属する官僚たちが告発書を粛宗に提出した。そこには、「張禧嬪の兄が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という内容が記されていた。
粛宗は驚愕したが、それだけで終わらせないのが彼のしたたかなところだ。粛宗は自分の王権を強化するために、淑嬪・崔氏の毒殺疑惑を利用して政変を起こした。
というのは、勢力が強すぎる南人派を弱体化させるために、王命を発して南人派の高官たちを次々に罷免したのだ。
西人派が息を吹き返した。それは粛宗にとって好ましかった。再び南人派と西人派の勢力が拮抗し、官僚たちは激しい勢力争いで消耗することになった。
こうして、粛宗の王としての権威はグッと強くなった。このように、粛宗は派閥争いをうまく利用した国王でもあった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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