現在、韓流プレミアで放送中の韓国時打撃『トンイ』。その第17話で張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗の息子を産むのである。それは、歴史上では1688年10月27日のことである。
初めて子供が生まれたことを喜んだ粛宗は、生まれたばかりの息子を早く「元子(ウォンジャ)」にしたいと考えた。王の後継者のことは正式に世子(セジャ)と言うが、その世子になる第一の候補が元子なのである。
1689年1月10日、粛宗は重臣たちを招集した。息子を元子にすることを認めさせるためだった。
ただし、王子が生まれてまだ2カ月半しか経っていなかった。しかも、側室が産んだ子供であることが重臣たちを悩ませた。
この時点で正室の仁顕(イニョン)王后は21歳だった。病弱とはいえ、これから子供をもうける可能性も十分高かった。
「もう少し様子を見て、王妃が王子を産むのを待つべきです」
それが多くの重臣たちの率直な気持ちだった。
それを受けて、粛宗は居並ぶ重臣たちを見回してからこう言った。
「後継者をまだ決められないので民心が落ちつかないようだ」
粛宗はさらに言った。
「今日こそ元子を決めたいと思っている。もし異議をとなえようとする者がいるなら、官職を返上してただちに立ち去れ!」
反対を認めないほど口調が強硬だった。
【関連】名君だった『トンイ』の粛宗。女性問題ではトラブルメーカーだった!
重臣たちは「イエスマン」ばかりではなかった。
彼らは官職と命をかけて王に意見することもいとわなかった。それが朝鮮王朝の伝統でもあり、そうした見識をもっていたからこそ、高官たちは王に対しても強い影響力を保持できたのだ。
このときも異議が続出した。重臣たちの間では「王妃はまだ若いので、元子の決定を急ぐべきではありません」という主張が多かった。
王と臣下が対立した。
前編はここまでにしよう。後編では王と臣下の対立したことの続きから紹介する。粛宗の意見に反対する臣下たち。この話し合いはどんな結末を迎えるのだろうか。そして、張禧嬪や粛宗の息子の運命はどうなるのか。
構成=大地 康
前へ
次へ