朝鮮王朝が「儒教の国」になることを暗示した出来事とは?

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かつて高麗王朝の都は朝鮮半島の中央部に位置する開京(ケギョン/現在の開城〔ケソン〕)であった。

地の利もよく王宮などの施設が揃っている、という点では、朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)も都をそのまま開京にするほうがはるかに便利だったことだろう。

李成桂の肖像画(写真=御真博物館)

しかし、李成桂は“高麗王朝の影響が残りすぎている開京に安住していると新しい王朝の未来像が描けない”と思い、困難を承知で遷都する意志を固めた。

以来、風水師を動員して民族の精気が宿る土地を探した結果、白羽の矢を立てたのが漢陽(ハニャン/現在のソウル)だった。

漢陽は開京から南西に50キロほど行ったところにあり、風水師が太鼓判を押しほど“気”が満ちた場所だった。その中でも特に“気”が集まる中心地に李成桂は王宮を建てた。それが、今もソウル最大の名所となっている景福宮(キョンボックン)である。

【写真】景福宮…12万坪以上の敷地を誇る朝鮮王朝500年のシンボル

李成桂が選んだのは儒学者の意見

その建設は朝鮮王朝創設の3年後である1935年から始まったが、当初は正門の光化門(クァンファムン)をどの位置に置くかで大激論があった。というのは、李成桂の側近の間でも、儒学者と僧侶の意見が真っ二つに割れたのだ。

「王宮予定地の南側に災いを呼ぶ山がございます。それを避けるためにも、正門は東側に置くべきです」

僧侶はそう主張した。

一方、儒学者は以下のように反論した。

「王が南側を向いて政務を行なったほうが王朝が長く続きます。それだけに、正門は南側になければなりません」

ここまで意見が違うだけに、李成桂の悩みは深かった。けれど、周囲の者たちは李成桂が正門を東側に置くだろうと予想した。李成桂が熱心な仏教徒であるだけに、最終的に僧侶の意見を聞くだろうと思えたからだ。

しかし、李成桂が選んだのは「南側」だった。彼は僧侶より儒学者の意見に耳を傾けたのである。

これは非常に重要な意味を含んでいた。なぜなら、朝鮮王朝が仏教より儒教を重んじる姿勢を暗示していたからだ。こうして朝鮮王朝は儒教の国になっていった。

構成=大地 康

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