長い朝鮮王朝史の中でも、とても癖がある人だった。本名は李昰応(イ・ハウン)で1820年に生まれた。王族であったが、10代のときに両親が亡くなり、苦労ばかりさせられてきた。
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1860年代、朝鮮王朝の政界は、純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金氏(キムシ)一族が権勢を振るっており、時の国王・哲宗(チョルジョン)さえも、その影に埋もれるようにして存在感を失っていた。そんな激動の時代にあって、李昰応は静かに、しかし燃えるような野望を胸に抱いていた。
彼は決して表には出さなかった。安東・金氏に気づかれぬよう、自らを愚かで無能な者に見せかけたのである。彼の選んだ戦略は、まるで舞台の脚本のように巧妙で、計算されつくしていた。
1つは、素行の悪い者たちとあえて交わることで、自分が怠惰で風紀を乱す者であるかのように装ったこと。酒に溺れて遊び人のように振る舞うその姿は、政治への関心とは程遠いものだった。
もう1つは、自尊心のかけらもない哀れな人間を演じることであった。王族であるにもかかわらず、彼は安東・金氏の有力者の屋敷を回っては、物乞いのように施しを願った。その卑屈さは、見る者すべての同情と軽蔑を誘い、誰も彼に疑念の目を向けることはなかった。
しかし、それこそが彼の真の狙いであった。李昰応は、自らを貶めることで敵の油断を誘い、機が熟すのを静かに待ち続けていたのだ。まさに、底知れぬ知略と忍耐を併せ持つ男であった。
運命の時は、哲宗の急逝によって訪れた。哲宗には世継ぎがいなかったため、王位継承をめぐる政局は一気に混迷する。李昰応はその隙を逃さず、大妃(テビ/朝鮮王朝第24代王・憲宗〔ホンジョン〕の母)と密かに手を組んだ。安東・金氏の横暴に辟易していた大妃にとっても、この提案は渡りに船だった。
こうして李昰応は、電光石火のごとく動き、自らの二男を王座に押し上げた。その少年こそが、26代王・高宗(コジョン)である。以後、李昰応は「興宣大院君(フンソンデウォングン)」と呼ばれ、若き王の背後で実権を握る最高権力者となった。
なお、ドラマ『風と雲と雨』では、名優チョン・グァンリョルがこの興宣大院君を演じ、パク・シフと共演した。劇中の彼もまた、一筋縄ではいかぬ、陰影に富んだ人物として描かれていた。
文=大地 康
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