『トンイ』を見ていると、チャン・ヒビン(張禧嬪)の兄としてチャン・ヒジェ(張希載)がよく出てくる。
とてもずるがしこい男で、妹が王妃であることを利用して数々の悪巧みを行なっている。
こんな人物が果たして史実でも重要な役職に就いていたのだろうか。
実際に起こったことを調べてみよう。
チャン・ヒビンが初めて王宮に女官として入ったのは1680年頃だ。通訳をしていた親族の紹介で王宮に入っている。
それから粛宗(スクチョン)に寵愛されて王妃になったのは1689年5月のことだった。それ以前にはチャン・ヒジェは歴史にはまったく出てこないのだが、妹が王妃になってからは急に重要な役職に就くようになった。
本来なら、科挙(官僚の登用試験)に合格していないので高官になることはできないのだが、妹のコネで次々に出世していった。
当時の朝鮮王朝は、チャン・ヒビンを支持する南人(ナミン)派とそれに対立する西人(ソイン)派が派閥闘争を繰り返していた。
チャン・ヒジェは、南人派が王宮内で有利になるように様々な陰謀を行なったと言われている。それゆえ、西人派からはかなり恨まれていた。
粛宗がチャン・ヒビンよりトンイ(淑嬪・崔氏)を寵愛するようになると、トンイを支持していた西人派が強くなってきた。そして、西人派はさらに逆襲に出た。
西人派の官僚たちが粛宗に告発書を提出したのだ。そこには驚くべきことが書いてあった。なんと、「チャン・ヒジェが淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」というのだ。
この告発書によって王宮内は大混乱に陥った。
厳しい取り調べの末、チャン・ヒジェは済州島(チェジュド)に流罪になった。妹のチャン・ヒビンが粛宗に嫌われてしまったことによって、兄のチャン・ヒジェも没落してしまったのだ。さらに悪事が露見して彼は後に死罪となっている。
こうして、チャン・ヒジェは悪評にまみれたまま、歴史からその姿を消した。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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