韓国時代劇の『華政(ファジョン)』を見ていると、「大北(テブク)派」という言葉がよく出てくる。これは朝鮮王朝の政治を主導した派閥の名称なのだが、当時の派閥の構図はどのようになっていたのだろうか。
朝鮮王朝の病巣と言われたのが「党争」だ。これは、政治を動かす人たちが派閥を形成して、常に激しい主導権争いをしたことをさしている。
党争が激化したのは1575年からである。ときは14代王・宣祖(ソンジョ)の時代だった。
朝鮮王朝の官僚たちが東人派と西人派に分かれて争った。
東人派の指導者が都の東側に住み、西人派の指導者が西側に住んだことから派閥の名がそのようになった。
宣祖の治世時代には、徐々に東人派が優勢になり、西人派は劣勢に立たされた。
完全に主導権を握った東人派なのだが、内部の意見の対立から南人派と北人派に分かれてしまった。
このときには、南人派より北人派の勢いが強かった。つまり、北人派の天下になりそうだったのだ。しかし、今度は宣祖の後継ぎをめぐって内部で対立が起きてしまった。
ついに、北人派は大北派と小北派に分裂したが、光海君を支持したのが大北派で、光海君の異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を支持したのが小北派だ。
この当時、西人派はまだ派閥として存続していたが、1608年に光海君が即位すると、力をすっかり失ってしまった。
光海君の治世時代に朝鮮王朝は大北派の天下となった。
この大北派の大物高官が李爾瞻(イ・イチョム)であり、一緒に結託して悪事を働いたのが金介屎(キム・ゲシ)である。
2人は『華政』にひんぱんに登場してくる。
史実では、李爾瞻と金介屎が陰謀をはかって永昌大君を1614年に殺害した。これによって、永昌大君を支持していた小北派は勢いを失った。
しかし、歴史は繰り返す。
天下を取っていた大北派だったが、光海君が1623年にクーデターで王宮を追放されると没落してしまった。栄華は長く続かなかったのだ。
代わって、少数派に転落していた西人派が巻き返し、以後は西人派が朝鮮王朝の主導権を握った。
以上のように、党争において勝者はめまぐるしく変わった。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
前へ
次へ