朝鮮王朝では、国王の祖母を大王大妃(テワンテビ)と言い、母を大妃(テビ)と呼んだ。ともに王家の女性たちの長老なのだが、具体例として両者の立場が激化したのが25代王・哲宗(チョルジョン)が統治していた19世紀の半ばだった。
【写真】『哲仁王后』の大王大妃ペ・ジョンオクはどこまでスゴいのか?
このときの大王大妃は純元(スヌォン)王后であり、23代王・純祖(スンジョ)の正室だった。実家の安東(アンドン)・金(キム)氏が外戚として絶大な権力を握る上で中心人物になった女性である。
ところが、純祖はあまりに安東・金氏の一族が政治を牛耳ってきたので、対抗勢力として豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏を優遇して、その一族から息子・孝明(ヒョミョン)世子の正室を迎えた。それが趙氏(チョシ)であった。
しかし、孝明世子が1830年に21歳で急死してしまったので、豊壌・趙氏は勢力を拡大することができなかった。
純祖が1834年に亡くなったあと、孝明世子の長男が即位して憲宗(ホンジョン)となった。しかし、彼は1849年に22歳の若さで亡くなり、純元王后が安東・金氏の傀儡(かいらい)として指名したのが哲宗なのである。
こうして哲宗の時代には、孝明世子の母の純元王后が大王大妃となり、孝明世子の妻の趙氏が大妃となった。
2人はそれぞれが安東・金氏と豊壌・趙氏であって、実家の一族が違う。そして、両一族は激しく勢力争いをしていたので仲が悪いのだ。それゆえ、姑の大王大妃と嫁の大妃もその影響を受けていて、お互いにいがみあっていた。
そういう歴史背景を巧みに取り入れたのが『哲仁王后~俺がクイーン⁉~』だった。このドラマの中で、大王大妃と大妃が極端に対立していた。特に、大妃の態度が過激になり、目上の大王大妃に対してきつい表情で歯向かっている。
それには理由がある。豊壌・趙氏は勢力が衰える一方だったので、危機感をもった大妃が大王大妃に対して逆らい続けて意地を見せたのである。まさに瀬戸際に追い込まれた大妃の逆襲だった。
その結果、『哲仁王后~俺がクイーン⁉~』はもともとコミカルな時代劇なのに、王家の嫁姑問題だけは辛辣に描くことになったのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】『哲仁王后』チョ大妃役で注目のチョ・ヨニが披露する演技の魅力!
前へ
次へ