『ホジュン~伝説の心医~』が描いた壬辰倭乱で宣祖はどんな窮地に陥ったのか

このエントリーをはてなブックマークに追加

テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『ホジュン~伝説の心医~』では、7月17日の第57話において、壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本では“文禄の役”と言う)の様子が描かれていた。そのあたりを史実で詳しく見てみよう。

【関連】『ホジュン~伝説の心医~』が描く戦乱はどんな経緯で始まったのか

1592年 4月 29日、王宮の公式会議で、14代王・宣祖(ソンジョ)が朝鮮王朝の首都であった漢陽(ハニャン/現在のソウル)を離れて平壌(ピョンヤン)に行くことが決定した。さらに、明に援軍を願い出ることも決まった。

宣祖は4月30日の早朝に北に向かって王宮を出発した。そして、豊臣軍の先陣を務めた小西行長軍が漢陽に入ったのは5月3日だ。それは、釜山上陸から20日ほどのことだった。

漢陽を占拠した豊臣軍。参戦している大名たちは兵糧米をしっかり確保するために、土地を占領して農民を支配することを狙った。さらに、第一軍の小西行長軍は、平壌(ピョンヤン)に向かった宣祖を追って、北上を続けた。

行く手を阻むのが大河の数々だった。急流の川が多い日本の地形と比べて、朝鮮半島には川幅が広い大河が多かった。臨津江(イムジンガン)もその1つ。小西行長軍はかろうじてここも突破して平壌をめざした。

『ホジュン~伝説の心医~』
画像=MBC

追い詰められた朝鮮王朝

一方、第二軍の加藤清正軍は、朝鮮半島東北部の咸鏡道(ハムギョンド)に向かった。ここは辺境の地。北方の異民族の侵入も多い。その地にまで豊臣軍が兵を繰り出すことで、豊臣秀吉の目的が朝鮮半島全土の占領であることが明白になった。        

咸鏡道をさらに進んだ加藤清正。「戦闘に長けていた」と朝鮮王朝側から警戒された彼は、北辺の要地であった会寧(フェニョン)にいた王子2人を捕虜にした。

その2人とは、宣祖の息子である臨海君(イメグン)と順和君(スヌァグン)である。なぜ、王子までが辺境の地にいたのか。実は、2人は義兵を募る目的を持って地方を巡回していたのである。そこまで、朝鮮王朝は追い詰められていた。 

それほどの窮地だったが、宣祖にはまだ頼みの綱があった。中国大陸を支配する明である。宣祖は祈るような気持ちで明からの援軍を待ち続けていた。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

【関連】『ホジュン~伝説の心医~』では国王の後継者問題がどのように描かれるのか

【関連】『ホジュン~伝説の心医~』の歴史解説/ついに登場した宣祖はどんな国王だったのか

【関連】『ホジュン~伝説の心医~』の歴史解説/内医院の出世事情はどのようになっているのか

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事