【トンイの歴史解説】西人派と南人派は何をあんなに争っていたのか

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ハン・ヒョジュが主演した『トンイ』を見ていると、19代王・粛宗(スクチョン)を支える高官たちの間で深刻な派閥闘争が起きている。特に、南人派と西人派が激しく争っていたが、そのあたりの時代背景を解説しよう。

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朝鮮王朝で高官同士の争いが熾烈になってきたのは17世紀の後半だ。

この時期に勢力を伸ばしてきたのが南人派と西人派で、彼らは政策や政治倫理をめぐって激しく対立した。そこまで深刻な派閥闘争が起きた理由は、官職の奪い合いだ。

官職の数は決まっているので、多くの官職を持った側が強くなる。そうやって多数派になるために、各派閥は相手を蹴落として官職を奪うことに執着したのである。

その際に、各派閥が重視したのが、王妃・大妃(国王の母)・側室を味方に引き入れることだった。彼女たちは国王に対して大きな影響力を持っている。よって、各派閥は王族女性や側室と利害関係が一致するように策を弄した。

西人派が淑嬪・崔氏を支持して南人派が張禧嬪を支えた

王族女性の動向による影響

しかし、粛宗はとてもしたたかな国王であり、官僚の力が強すぎると王権が脅かされるおそれがあることを熟知していた。そこで、むしろ各派閥を競わせてお互いが消耗するように仕向けたことが多かった。それによって、粛宗の統治時代は王権が強化されたと言われている。『トンイ』ではチ・ジニが粛宗を演じたが、史実の彼は官僚の扱い方がとても巧みだったのだ。

そんな中で少しでも優位な立場になろうとした西人派と南人派。支持する王宮女性は完全に分かれていて、仁顕(イニョン)王后を支えたのが西人派であり、張禧嬪(チャン・ヒビン)を支持したのが南人派であった。

1680年以降、両派の勢力は拮抗していたが、張禧嬪が1688年に粛宗の長男を出産してから南人派が強くなり、1689年に仁顕王后が廃妃になって張禧嬪が王妃になると西人派が勢いを失い南人派がさらに優勢になった。

しかし、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の登場が派閥の力学を変えた。仁顕王后を慕っていた彼女が粛宗の寵愛を受けるようになり、西人派が復活した。そして、1694年には張禧嬪が王妃から側室に降格し、仁顕王后が王妃に返り咲いた。さらに、その年の秋に淑嬪・崔氏が粛宗の二男(後の英祖〔ヨンジョ〕)を産んで、西人派の優位が完全に明らかになった。

1701年には、仁顕王后が亡くなった後に張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた罪を問われて死罪になったことで、南人派は完全に没落してしまった。

このように、西人派と南人派の派閥闘争は王族女性の動向によって大きく影響されていたのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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